浅見光彦シリーズといえば、旅情と人情が交錯する地方の風景が魅力だ。だが『上野谷中殺人事件』には、旅がない。舞台は東京の下町、谷中。再開発に揺れる地域の葛藤が描かれ、光彦は“旅人”ではなく“都市の観察者”として事件に向き合う。
読後、私はふと宮崎のシーガイヤを思い出した。かつて「世界最大級の屋内ビーチ」として開業したあの施設は、バブルの夢を象徴する存在だった。だが夢は長く続かず、経営破綻を経て、今は別の形で再生されている。その変遷は、まるで『上野谷中殺人事件』に登場する谷中の風景と重なるようだった。
バブル期の再開発は、全国各地に“記憶の断層”を残した。駅前の商店街が消え、巨大なショッピングモールが現れ、やがて空きテナントが増えていく。平成の時代に生まれた建築物の多くは、令和の今、再構築か撤去の岐路に立っている。
私の父が使っていたPILOTの万年筆のように、道具には記憶が宿る。だが建築物や都市の風景もまた、地域の人々の記憶を抱えている。シーガイヤの波の音、谷中霊園の静けさ、上野駅の雑踏──それらは、ただの背景ではなく、物語の登場人物なのだ。
『上野谷中殺人事件』は、そんな“風景の記憶”に光を当てる作品だった。旅情がない代わりに、都市の記憶がある。浅見光彦が歩いた道は、私たちが暮らす街にも通じている。再開発の波に飲まれた風景の中に、私たちは何を残し、何を忘れてきたのだろう。
コーヒーを淹れながら、ふと読み返した一節がある。
「人は、風景の中に生きている。風景が変われば、生き方も変わる。」
この言葉が、私の胸に静かに響いた。記憶と風景の再構築は、私たち自身の再構築でもあるのかもしれない。